本 読書記録 「不寛容社会」 谷本真由美 

 

リッキー

สวัสดี ครับ (サワディークラップ) Rickey(@rickey_blog) and Instagram (rickey_blog)です。

@May_Romaこと谷口真由美さんの「不寛容社会」を読みました

アメリカへの出張中、なかなか本を読む時間が無くて、先日帰りの機内の中で「不寛容社会」を読了しました。

本来もっと本を読みたいのですが、出張中に限っては、色々とタスクが舞い込んでしまったのと、日本に居る時のようなまとまった空白の時間だったり、通勤時間のようなまとまったブロックとしての時間がないので、なかなか読み進められませんでした。

IMG_2701

この本は閉鎖的な日本の空気感にうんざりしている人や、海外で幼少期を過ごし日本のやり方、考え方、日本で小さい頃から育ってきた人たちと馴染めない帰国子女の方とか、日本人であるけれども周りの人に受け入れられず困っている人にはオススメです。

この本を読んでみて、何故日本人が他人叩きや他人と同一の行動を好しとするのかということが構造的に分かって、日本人でありながら日本人の背景的な部分がよく分かりました。

気になったところをピックアップ

全体の中で気になったところだけをピックアップして記録しておきます。

決して書評といえるようなものではありません。

自分自身の読書記録として書いてあるだけですから。。。

notebook-1840276__480.jpg

他人を叩かずにはいられない日本人

日本人は何故他人叩きが好きなのか?

そもそも日本は村社会で、内と外がしっかり別れているから、グローバルな時代である現代にもかかわらず、その心理的な価値観は今も変わっていないのではないだろうか。

landscape-615428__480.jpg

日本の社会の中で、「同質」であることが求められることがよくある。

学校などもほぼ洗脳に近いと私は考えているが、そこで、「同質」であることが素晴らしいと相当刷り込まれたかもしれない。

だれかが突拍子もないコトをしたり、集団の和から逸脱するようなコトをした場合、大変に叩かれる。

その行動が合理的な中に行われたとしても、その合理性は勝つことは無い。

アメリカだったら、賞賛されるかもしれないが、日本は合理的なプロセスよりも、みんなが合意しているろいう暗黙の了解の方が買ってしまう。そういう点に息苦しさを感じる人も多いのではないだろうか?

違う人、そういう人を見つけたら叩きたくなる。

これは村を守るために、違う村の人を見つけた時の衝動的な行動だったのかもしれない。だから文化の構造の問題でもあるし、精神的なものでもあると思う。

特に、最近のIT社会になって「炎上」や芸能人の「叩き」「吊し上げ」的な報道が多いように感じる。著者はそういう他人叩きが多い理由をこのように述べている。

行政運営を学べる大学院が少ない日本では、誰も行政に対して専門的な知識に基づいた指摘が出来ません。だからこそ「おかしい!」「問題がある!」などの感情をむき出しにした情緒的な報道にばかり走ってしまうのでしょう。

要は日本のメディアが理論建てた追求が出来ないで、情緒的な報道に偏ってしまっていることと、その理由がメディア側に専門的な知識を持った人材が少ないということだ。

最近の事例だと、ベッキーさんの不倫、舛添氏の問題、文科省前事務次官の前川氏の出会い系バーの問題などがその良い例だと思われる。

不倫とか出会い系って、私的にはその人の個人の問題なので、それを情緒的にフィーチャーして報道するというのは、本当に、これこそが「印象操作」のような気がしてならない。

前川氏の出会い系のコトを新聞の記事にしている読売新聞の印象操作は、日本人を情緒的に誘導しようとしている典型的な例だと言える。

「一億総叩き社会」日本の考察

young-animal-450149__480.jpg

日本人の構造は家をウチ、家を出たらソトと、このように別けていると筆者は考察する。

そして、家族というユニット(単位)を大切にし、それがあたかも運命共同体のように紐付けられている。

筆者はこのコトについて次のように述べている。

家族を中心とする日本の社会構造の中では、親子というのは一心同体であり、たとえ成人していても、子供の犯した罪は親の責任である—と考える日本人が多いからでしょう・・・

本当にそうだなと思ったのは、成人した子供の犯した犯罪について、親が謝罪をするという記者会見。

本当に親のせいなのかどうなのか、、、どこまでFamilyが責任を取るのか、他の国だったら子供は独立していく一人の個人として捉えられるから、そこまでならないだろうなと思います。

そして、家族という感覚、家族という場について、筆者は引き続き次の様に述べている。

アメリカではクラス内で競争することにより生徒の成績が著しく伸びているにもかかわらず、日本人の生徒は極力競争を避けるばかりか、順位を気にしすぎて成績が下がってしまう。

こうした指摘は、今も昔も、日本人が学校という公的な場であっても、疑似家族的な「場」を形成する空間を考えていることを象徴している事例を表すのではないでしょうか。同じ場を共有する同級生は競争相手ではなく疑似家族なので、競争はあってはならないと考えている。

(中略)

就職活動においては、面接はあくまでも調和が重要な「場」なので、少し変わった性格の人や奇抜な発想をする人は「調和を乱す人」と判断され、「新しいアイディアを生み出す資産」とは判断されません。

日本に「Google」や「Apple」のような革新的なアイディアを創出する企業が存在しないのも当然の流れではないでしょうか。

「家族」という場ということと、「親と子」の関係性が個人の能力を発揮することを阻害している。

独立したい傾向の人にとっては、いつまで自分は「子」でいなきゃいけないんだ!というストレスがいつまでもつきまとう。

まだまだ”個人社会”ではない日本は、この親子関係、家族関係についてはこれからもっと変わってくるのではないかと私は考えてます。

「出る杭は打たれる。でも、出る杭も出すぎてしまえば打たれない。」とX JAPANのYOSHIKIさんが言っていたが、この「出過ぎる杭」になってしまうまでの突き抜ける感じになってしまうのが、日本の土壌の中では難しい一面があるのではないだろうか。

そういう人材を認めたり、承認したりすることがわりかし少ない環境であるが故に、「突き抜ける人」が自然と少なくなってしまうかもしれない。

YOSHIKIも自分は「異端児たった」と言うけれども、そういう人を認めて、育てていくという寛容性が大事で、本当にYOSHIKIのような成功者は稀で、その影で潰されている多くの人がいることを忘れてはいけないと思う。

以上、「不寛容社会」の読書記録でした。他にも色々とトピックが時間がないので書けませんでした。。。。是非、書店で本を取ってみて下さい。

谷本 真由美 ワニブックス 2017-04-12
売り上げランキング : 149852

by ヨメレバ

 

リッキー

それでは、良い一日を!

Have a wonderful and fruitful day!

พบกันใหม่

 

  • ブックマーク
  • Feedly
  • -
    コピー